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    2014年03月06日

    マドレボニータの産後プログラム指導法集中講座2daysを受講した話

    5年越しの思いを実らせ参加(暑苦しい)

    NPO法人マドレボニータの
    産後プログラム指導法集中講座2daysを受講した。

    受講した理由は、3つある。
    ひとつめはマドレボニータで出会う人が魅力的で
    言葉が通じやすい人が多いと常々思っていて、
    そういうコミュニティの核になるプログラムは
    どう作られているのかにとても興味があったから。

    ふたつめはマドレボニータには事務所がなく、
    インストラクターは個人事業主で
    事務局スタッフも在宅&テレワークで仕事をしていて、
    子どもがいても、夫が転勤になっても
    それぞれの場所やペースで働いているということを
    うらやましいと思っていて、自分の働き方にも
    なにかヒントになることがあるんじゃないかと思ったから。

    みっつめは今の自分の人生にある問題に立ち向かうためには
    体力と心身のメンテナンスが急務かつ重要なことで
    体へ意識を向かわせるきっかけがほしかったから。

    5年前から興味があったけど、
    指導者を目指してるわけじゃないから場違いかなーとか
    平日まるごと2日続けて仕事休めないしなーとか
    託児の手配がめんどくさいしなーとか
    いろいろ言い訳して行けなかった。
    やらないことの言い訳っていくらでもあるもんだな。

    でも、前回の集中講座の実況をTwitterで見て
    今行かなきゃ!と思い立ち、
    勢いで申し込んだ。


    事前課題を前にして

    申し込むと講座の詳細がメールできた。
    時間もエネルギーもわりとかかることだったけど、
    物事をやるためのきっかけを人に設定してもらって
    さらにそれを人に見てもらえる贅沢な機会なんて
    大人になってからそうそうないと思って、
    それを味わいながら取り組んだ。

    学生のころって、実はすごく贅沢だったんだなと思う。
    自分がそうだったときは、まるで気がつかなかった。

    自分が学びたいことのために
    お金と時間を費やして、
    家族にも協力してもらって、
    それで何も持ち帰れなかったってわけに行かないなと。


    産後クラスについて学ぶ

    私は、最初の出産後に1回、
    2回目の出産ではにんぷクラスと産後クラスに1回ずつ参加した。
    それで集中講座では、そのプログラムがひも解いていかれるんだけど、
    そのひとつひとつが実際クラスに参加したときに
    印象に残ってる部分だった。

    必ずしもポジティブな印象への残り方じゃなくて
    「具体的に何回なのか教えてほしい」とか
    「もう時間ギリギリなのにまだやるの?」とか
    疑問に感じた部分も多かった。
    でも、それも確信犯的だったんだと気付いて
    そのたび、ひーーーと思った。

    妊婦や産後で、意識が朦朧(!)としていても忘れない
    引っかかるようなフックの作り方で、
    インパクトを残すということの
    一筋縄ではいかない感じを思い知った。


    依存させないということ

    印象に残った話がいくつもある。
    その印象に残る場所は、聞く人によって違うと思う。
    私が今回とてもインパクトを受けた部分をいくつか書きたい。

    産後クラスは、参加した人ならわかると思うんだけど
    産後の身にとってとても居心地のいい場所だ。
    受け入れられてる感(これも入念に準備されてる)があるし、
    自分と状況が似ていて、求めるものが近い人が集まってるし、
    クラスに参加するごとに体力が回復するのを実感できる。

    でもここが終着点ではなく、
    その先に自分で進むためのエネルギーを得る場所だから、
    いつまでもクラスに依存しないように、
    仕組みを整えているというのにガツーンときた。

    だって、個人事業主だったらリピートする人が多いほうが
    利益も安定するし、そっちを取りたくなっちゃわないかな?と。
    目先の利益より、ビジョンを優先させることを
    気持ちだけではなく、仕組みとして作っていることに
    衝撃を受けた。

    そして、気付かないうちにハマりがちな依存についても考えた。
    依存をおそれるあまり、私は常に引いて冷めてる部分がある気がする。

    依存と熱狂的な愛情との線引きとして、
    その気持ちを自分の言葉で説明できるか
    っていうのをめやすにしてるんだけど、
    言葉への瞬発力が落ちてるときはなかなかそれができず
    愛情にタイムラグができちゃうこともしばしばだ。

    マドレボニータへの共感を最初に素直に言葉にできたのは、
    クラスに参加して体力が勢い良く回復していたからこそだったと思う。
    そう考えると、すべてつながっていることに気付いて驚く。


    言葉を大切にする

    私が最初にマドレボニータを知ったのは
    最初に妊娠中に出産本を読みあさっていたときに
    吉岡マコ先生の本を読んで、
    こんな考え方や言葉を持っている人が提案する運動なら
    してみたいなと思ったことからだった。
    それまで運動は好きじゃなかったし、苦手意識もあった。

    クラスの中で使われる言葉にも
    よく使われる類語ではなくて、
    それでなくてはいけない理由がいくつもあって、
    それが「マドレボニータらしさ」を作っている。

    それに惹かれる人が集まるから
    言葉に対する優先順位の置き方が近い人が集まるから、
    「言葉が通じやすい」と感じるコミュニティになるのかな
    と思った。

    だからこそ、居心地が悪いと感じるときもあるんだとも。
    私は、自分以外のことに手一杯になってるときとか、
    自分の言葉と行動にまったく自信がないとき、
    マドレボニータのコミュニティが居心地が悪いと感じる。

    マコ先生の「言葉の陳腐さに敏感に反応する」
    という言葉にどきっとした。
    だからここにはいられない、みたいな気持ちを思い出した。


    消費者に成り下がらせない

    母になった女性に対して
    享受するだけの存在という思い込みが
    社会にもあるし、その女性たち自身にもある。
    その思い込みを止めるために、主体的に生み出すという話にも
    内臓をつかまれるような気持ちになった。

    抵抗を感じつつも、楽なほうに流されて
    その思い込みに乗っかってた部分を自覚したから。

    でも、人にお金を払わないと
    何かを得られないという思い込みは
    すごく怖いし、むなしい。
    そうじゃないよなと思いつつも、
    ひとりだけでそれを信じるのは難しいとも思う。

    だからそれへの抵抗として「場」を作るというのは、
    本当に理にかなっているし、ありがとうございます...と
    心の中で感謝を述べまくっていた。


    自分の快適さへの貪欲さが足りない

    肩こりとか、みんな受け入れ過ぎでしょって話。
    そのメンテナンスも他人にゆだねて、
    自分でどうにかできると思っていることの範囲が狭すぎる。

    自分の体の快適さへのジャッジは自分しか出来ない。
    だからこそ、自分でコントロールできないと
    生きるのがしんどい(大げさ?)。

    まずはもっと快適にっていう貪欲さを持ち続けたいし、
    次にそれを自分でコントロールするためのスキルに
    磨きをかけたい。
    これは心身ともに言えること。


    働き方へのかかわりかた

    すごく新しいことをどんどん実践してるマドレボニータも、
    いつも間違わずに何かを選んでるわけではなくて、
    問題に出くわすたびに正面から向かって
    その都度立ち止まって考えてるんだなと思った。
    それが難しいんだけど。

    だから、新しいことができないっていうのは
    問題にちゃんと向き合っていないか、
    問題を正しく認識できていないか、
    どうなってほしいかを正確にイメージできてないか
    どれかなんだと思う。
    でも、どれも認めたくなくて結局
    やっぱりできない、だけで終わらせてる。
    思考停止ってやつ。

    集中講座には、答えはこれです
    って明確に示されない問題もいっぱいある。
    (大人になればだいたいのものごとはそうだよね)
    でも、答えを探さずにはいられない、
    かきたてられずにはいられない、
    そういう要素がちりばめられている。

    アシスタントだった高橋葉子先生が
    「かき立てられなくなった時が辞める時」って言ってたのが
    腹にどすんときた。


    人に伝えるということ

    文章を朗読したり、
    実際に前に出て教えるシミュレーションをしたりもした。
    それをして思ったことは、人に何かを伝えるなら
    伝える側の人はその何倍もそのことを
    理解して、整理していないと
    相手を納得させられないということ。

    そしてそれをするためには
    日頃からものごとを言語化する瞬発力が必要で、
    それにはひたすら訓練を重ねるしかないなと。

    でも、うまく伝えられるようになるまで黙っておこう
    だと、いつまで経っても全然伝えられるようにならない。
    だから、拙くても整理されてなくても
    耳を傾けてくれる人たちの存在が必要なんだと思う。
    そういう人と出会うための場所としての
    産後クラスの役割にも気がついた。


    後味はどすんとした感じ

    ヘビーだった。
    充実感、みたいなすっきりした言葉とも違う。
    まだ消化できてない部分が多くて、
    でも、これから考えたいことへの
    問いの立て方はおぼろげながら見えてきた気がする。

    「清濁合わせのんだ美しさ」っていう言葉を
    マドレボニータではよく使う。
    私はまだまだ「濁」の部分への掘り下げ方が甘かった。
    同時に「清」の部分もまだ本当には
    味わえていないのかもしれない。
    この世には、まだまだ知りたいことが多すぎる。

    posted by リョーコ at 09:47| シンガポール ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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